初出:2017/02/14 Vol.211 俺日記:無医村と無料思考
先生、「タダでやってくれ」って虫のいい話ですよね。
ねー、たまに凄いのいるからねー。医者に金払わないとかさー。
マジっすか・・・
恐ろしい事に実際に取材したことがある!
なるべくしてなる「無医村」もある
先日、ネットで絵を生業にされているイラストレーターに、絵を無料で描いて貰おうとするやりとりや、大学の先生に、生徒でも無い人が、質問を延々と送っていてそれに答え続けているTwitter上のやりとりを見てとあることを思い出した。
場所は伏せるが、かつて(といっても十数年前)無医村の取材に行ったことがある。
厳密には無医村になりかかっている村の話なんですが。
ともあれ、無医村というと、若い人が離れていって、次第に限界集落となって、次第に商店が無くなり、その周りの集落も同様に力を失い、支え合うものもなくなって、孤立死へ向かうもので、そこに残された老人は傍目からみれば気の毒な存在です。
しかし、中には無医村というのはなるべくしてなる村もあるのだな・・・というのが率直な印象を受ける物でした。自分が気づいたのは、外部から、それも一応支援の体裁で来ている人にさえ、完全な警戒態勢であること。
挨拶を返さないのは当たり前で、遠くからじーっと見つめて、目を向けると目をそらす・・・そうした部外者を迎え入れるという風土が消えてしまっていることでした。まぁそんな閉鎖的な空気は関係ないのですが、本題はその先。
その無医村になりかけてるというのは、そこの病院で話を聞いたことで分かった話。
相手が医者であるからといって、無料で看て貰おうとする人があまりに多いということです。
その理屈は
「見るだけで何もしないのならお金を払う必要も無い」
というもの。
診察料を払わないのはまだマシなほうで、薬を出しても、そのときは金が無いと薬だけ持って帰って、催促すると
「医者なんだから、お金持ちなんだから払う必要は無い」
という返事がくるという。とはいえ、慢性疾患のための薬なので切らして見殺しにするわけにもいかないそうで(自分なら間違いなく見殺すがw)ごく稀に払うものの、当然足りていないという話。
医師の診察は、医者になるための医学部での6年の猛勉強に加え2年の兵役・・・じゃなかった研修の最低でも8年もの弛まぬ努力(受験勉強を入れれば更に)に加えて勉強中はお金を得ることは難しいわけで、それなりの財産もかかっているわけです。
医者の「診る」はこの上に成り立ってるわけです。だから「無料」じゃないわけです。
無料で頼むのは人のお金を奪うのと同じ
絵が描ける人も、当然うまくなるまでに、それこそ何百時間、何千時間という時間を費やしてきているからこそ、「魅力的な絵」が描けるわけです。
大学の先生も、当然その莫大な知識を得るに費やした勉強、論文を書いたり読んだりと、凄まじい時間を勉強に費やしてきたからこそ、みんなに頼られる地位になったわけです。
そうした目に見えない価値を目に見えないからといって「無料」と思ってしまうのは、愚かという以外の表現を自分は知りません。
好きなんだから、得意なんだから、無料でいいんでしょうか?
もちろん、当人が「無料でいいのでやらせてください!」という場合はもちろん問題ないのですが、Aさんに無料だったんだから、自分も無料というのは、おかしな話です。
もっと基本的な話に立ち返ると、人生というのは休憩時間と営業時間です。
そして大半の人の起きている時間は「営業時間」であるということ。別にバイト中であるかとか、仕事中であるかとかではなく、その人が動いて仕事をすればお金を生み出すことのできる時間であるということです。
そこに「ロハでお願い」というのが来たら、そこで生み出されるお金はゼロ。
つまりは、一見無料に見えて、実際は人のお金を奪っているのと同じ行為とも言えます。
自分は出版社の編集者時代、仕事の依頼の際は必ず先にギャラの話をしろと先輩に酸っぱく教えられた覚えがあります。当時はナンノコッチャと思ってましたが、先にお金の話を双方が納得していないと絶対に良い仕事は出来ないというのは仕事をしてて分かっていったものです。
ギャラが分かっていれば、その仕事に対しての時給を自分で決めることができますし、クオリティも決めることができます。逆に、時給に見合わぬ丁寧過ぎる仕事をして破滅する人もいますが、それは自己責任。仕事を受ける前に己の力量と相談できない見誤ってるが故の失策です。
・・・となんか、熱くなってしまいましたが、無料と有料の話はもうすこし続きます。以下で続きを公開中。
宣伝
露骨な宣伝で恐縮です。「アリエナイ理科ノ大事典II」を、なにとぞ、よろしくお願いします。